繰り返し見た夢。 懸命に悟飯さんに思いの丈を伝えるまだ幼い自分を、こんなに近くから見ているだけの夢。 今、目の前で起きているのに終わってしまった手の届かない昔話。 そんな夢。 夢と知っている夢。 はぐらかされたなんて事は思わないが、十三に成ったばかりの自分には、悟飯さんの返事はよく解らないものだった。 覚えている。 ああ、この表情。 解っていないのに解った振りをして、大人振って、悟飯さんを理解した振り。 好感を稼いでいるつもりで。 馬鹿だな。 納得するまで訊いて置かなくては、二度と確かめられなくなってしまうのに。 「ありがとう」 そんな悟飯さんの声だけが鮮明に残って、わからないまま。 音はない。 だから悟飯さんの声は俺の記憶? 幼い自分を正面としたココからでは悟飯さんの表情は全く見えない。 見えれば、今の自分になら、何かが解る筈なのに。 ただ儚く綺麗な後姿。 抱き締めようとは思わない。 そんな事をすれば目の前に居る十三歳の子供の健気な瞳が、傷を映す事を知っているから。 何故、自分の記憶の中で自分の瞳を見ているのだろう。 見たくないのに。 悟飯さんを見る事が出来れば良いのに。 否、これが記憶なら、悟飯さんが見えているはずなのに。 これは記憶ではなくて夢。 夢? ここは記憶と夢の狭間。 幼かったあの日、はじめて逢った名前も知らない彼が背負っていたもの。 独り残され、今ここに辿り着いた彼を想う。 彼は自分に痛みの吐露なんてしない。 しないけれど、解ってあげたかった。 自分にそうしてくれたように。 夕刻に戻ったトランクスは、目に涙を浮かべるブルマに笑って見せたり、それを受けてにっと笑うブルマと満足そうにこれからに想いを馳せていた。 だから それが 嘘なんて 知りたくない 今までの、そしてやっとここまで辿り着いた二人の事、この世界の人々の事を想う。 けれど。 けれど、そうなの? トランクスが出掛けたのは七時間前。 荒れた土地にでも、生きようと懸命な新たな命、まだ若い草花の溢れる生命力が午前中の強い陽射しで最も美しく輝いているであろう時間。 けれどその時の彼の目にそれはどう映ったのだろうか。 否、目に入らなかったかもしれない。 それを思うと今日が曇日であればと悟飯は願う。 此処からは外の天候などわからないのだけれど。 ぷつぷつとした雑音が聞えはじめる。 突然のスピーカーを介した異音に驚き、悟飯は音の方向を見詰めた。 雑音を発していたのはラジオ。 主電源さえ入っていれば、切ってあっても緊急時には電源が入り緊急ニュースが流れる。 その仕組みは知っていても実物を見るのは初めてだった。 確かに悟飯の居た世界では普及している代物ではない。 それが何処の家庭にでもある物なのか、ここだからある物なのかは悟飯にはわからない。 けれど何方にしても痛みを伴う。 そして流れてきたのは予想通り人造人間に関するニュース。 ラジオからの音声は酷いノイズの中。 慎重さの中にも焦りが見え隠れしていた。 トランクスへと振向くと彼の表情が普段とは、否、つい先程までとは違う。 以前彼がよく見せたその表情。 自分には何時も柔らかく微笑んでくれるので忘れていた。 そうこの表情 それは悟飯の全てを制す。 声も掛けられずに自分のシャツの裾を握ったまま、只々トランクスを見詰てしまう。 そんな悟飯の視線に気付くとトランクスは何も云わずに微笑んで見せた。 無理につくられた微笑み。 その表情は深刻さを失っていない。 そこが精一杯。 「終わらせます」 それだけを言い足早に部屋を出て行く彼を追いたい気持ちは抑えて視線で追った。 想いだけをのせて。 閉じられた扉の向こうからブルマとの話声が微かに聞こえる。 聞いてしまいたくはなくてベッドルームへと逃げ込んだ。 この時が来るのは知っていた。 寧ろ待っていたはず。 一緒に行ってはいけない。 わかっているつもりだった。 この事だけには誰も立ち入ってはいけないと納得していた。 それでも待っている事しか出来ない自分が惨めに思える。 けれど自分を哀れんで伏し沈む事は出来ない。 してはいけない。 彼を守りたいから。 生意気でも拙劣でも、今、彼を支えるのは自分で在れる様に。 その七時間が堪らなく長く感じていた。 抑々、午前中に出た彼の帰りが夕暮れになるとは思っていなかったので数え切れない程の思考が頭の中をまわり続ける。 何かあったのかも知れない。 そんな事はない筈だけれど。 例えば自分がこの世界に遣って来たことで、何か異変が起き人造人間がとても強くなっていたり。 けれどそれは無いのだとブルマが説明してくれた。 この世界の歴史は変わらないと。 この時間軸の上ではトランクスが過去に行く事も、悟飯を連れて来る事も、はじめから決まっていて突然の変更では無いこと。 それが仮説か理論かより、彼女の信念の軸、或いは愛情として鵜呑みにしようと決めた。 そんな一日を終え様とする今、喜びを分かち合う母子の姿を見ている。 なのに何故こんな風に感じるのだろう。 空っぽ。 何に対してなのか、何のことなのかはわからない。 達成感はない。 空っぽ。 そんな言葉が脳裏を掠めた。 そんな言葉に支配された心に誘導される足は自宅へと向かえない。 この世界は沢山の大切なものを失い過ぎてしまったのだと聞かされていた。 けれど俺はその本当の意味を知らない。 失う前の世界なんて知らない。 だから俺にはこの世界が当然だった。 日常はそこにしかない。 悟飯さんが居なくなって気付いた。 俺に取ってこの世界は何も欠乏してはいなかったのだと。 充分足りていたのだと。 全てを失う事と、悟飯さんだけを失う事の違いがわからないまま、もうなにもない。 全ての色を失ってしまった。 地球がまわって、まわって、まわり続けて、それでも世界は無色だった。 けれど皮肉にもそんな虚無は人造人間の存在に救われた。 彼等を破壊すると云う目的に因って動く身体、とその身体に引き摺られている心。 人造人間を倒しても悟飯さんが戻ってくる訳ではない。 頭では解っている。 けれど心は急く。 早く色を取り戻したいのだと。 色は、ただその色は、人造人間とは関係のないところに在った。 そして取り戻したのではない。 新たに色付きはじめたのだ。 まるで生まれて初めての事の様に。 徐々にだった。 気付かないほど緩やかに、密やかに、あの虚構の世界で。 あまりに鮮やかで、眩しくて。 それでも忘れては居ない。 長年の目的であった人造人間の破壊に成功した今、思い知る。 あの人は戻らない。 それは誰の願い それは誰の想い 本当の本当は悟飯さんの願いを叶えたかったんだ…。 夕日に染まってオレンジ色。 世界がオレンジ色。 世界の中に居る自分は? 確かめる為に見詰めた掌は夕日を映していた。 オレンジを映し幸福を形にした笑顔を思い出したんだ。 ああ、そうだ。帰れる。 きっと今夜は眠れない。 それでも悟飯と同じ時間にベットに入った。 終止符-Full stop- 三年後にはセルが現れるだろう。 そんな事は関係なかった。 ここに確かな終幕があり、ピリオドが打たれた。 悟飯さん 討てた。 大切な人の仇を討てた。 悟飯さん 誰よりも大切だったあの人の、只ひとつの望を叶える事が出来た。 悟飯さん、これであっていますか? もし悟飯が生きていたら何と言っただろうか。 微笑んでくれただろうか。 泣いたかも知れない。 幼い頃の様に髪を撫ででくれたかも知れない。 自分はどんな言葉が欲しいのだろう。 頑張ったね よくやったね 信じていたよ ありがとう 誉めて欲しかった。 いいや、悟飯が喜んでくれればそれだけで良かった。 悟飯さん、俺は世界を救いたかった訳ではないみたいです。 あなたがそれを望むから応えたかった。 あなたの望を叶えたかったんだ。 遣り場のない想い。 何時かは何処かへ行くのだろうか。 突然。 手の甲に自分ではない体温を感じた。 それは僅かに触れた細い指先。 心情を見られていたのかと錯覚してしまうタイミング。 けれど温度の主は眠ったままで、寝返りの際に偶然触れただけだった。 何もかもが一度に解けたように安堵で満ちてゆく。 自分の心の在処を知った気がした。 なのに。 衝動。 崩れそうに頼りなく揺るぐ心。 大声で泣いてしまえたら良いのに、出来ない。 出来ないまま、その衝動に委ねて眠ったままの悟飯を掻き抱いた。 違うと解っている。 してはいけないと思う。 けれど、強く、強く、幼い身体を抱いて、押し出すように呟いた。 「悟飯さん」 どれだけ残酷な事をしているのかは充分に解っていた。 勿論、この幼い悟飯を失った悟飯の代わりした事など今まで一度だってない。 別のパーソナリティーとして、一人の人間として見てきた。 師の幼い頃の姿。 初めてこの子を見た時に思ったそれは、何時からか消えていた。 別の魂を宿した別の身体。 似ているところなら幾らでも上げられる。 しかし似ていると感じるのは違う人だと解しているからこそ。 なのに今、弱い自分を制せない。 苦しい。 そう感じて目が覚めた。 次に感じたのは痛み。 身体の痛み。 その次に感じたのも痛み。 心の痛み。 それが、その他の全てを消した。 でもね、それは誰の心の痛み? 彼が持つ痛みへの共感か。 或いは、それを打ち明けて貰えない痛みなのか。 一人で苦しまないで欲しかった。 こんな形ではなく、その痛みを分けて貰いたかった。 容易く届く程いつも傍に居るのに何も出来ない自分が惨めで堪らない。 彼が自分にしてくれたように彼を支え、受け止めたい。 なのに涙が溢れてきて愚かに泣く事しか出来なかった。 「悟飯さん」 圧し殺されているにも拘わらず確かに届く、低く小さな小さな声が、自分の名を呼んでいても、自分へは向けられていない。 苦しいのは本当はその所為ではないかも知れない。 「…すみません!」 突如腕の力が緩んで引き離された。 突然の事で肩を掴んだまま驚いた表情でこちらを覗き込むトランクスと目が合ってしまった。 何に驚いているのだろう。 自分が起きていた事にだろうか。 何に対する謝罪だろう。 起こしてしまった事へだろうか。 確実に違う。 「悟飯さん…」 自分に掛けられた声だと解る。 解るから悟飯は涙が零れるのを堪え乍ら頷いた。 「…ごめんなさい」 その謝罪は何を指すのか。 不安で仕方無いまま、彼の次の言葉を待っていた。 ごめんなさい、俺が好きなのはあなたではなく悟飯さんでした。と言われてしまったら? 今日の彼は悟飯さんで一杯だった筈で、それは当然の事だと解るし、状況が解らない訳でも、嫉妬をしていた訳でもない。 -本当に?- 只、不安だった。 もし自分が悟飯さんの代わりだったら? そしてその事に彼が気付いてしまったら? それが不安で仕方ないのに、ごめんなさいの後に続く言葉は中々彼の口から出ない。 「ごめんなさい」 もう一度だけそう言うと、トランクスは悟飯の強く閉じられた瞼に口付けた。 瞼に感じる体温。 ただそれだけ。 それだけなのに、ひどく膨らんだ悪い不安が急速に消えてゆく。 けれど全てが消えた訳では決してない。 だからこそ気付く。 -代わりでも良いから傍に居たい- ここが本当の心の在処。 夢を見ている。 目の前にはトランクスさん。 後を向いているけれどわかる。 初めて逢った時よりもきっともっと若い。 それでもわかる。 そんな夢。 夢と知っている夢。 その先に居る誰かが彼に何かを伝えようとしていた。 けれど音はない。 トランクスさんには聞えているのだろうか? 彼には聞えていれば良いのに。 何故そう思ったのかはわからない。 けれどそう思った途端、音が生まれる。 風が髪を揺らす音。 空気の振動。 春の匂い。 生まれたのは音だけではなかった。 Reality 彼の前の誰か。 それはとても遠い人。 自分が出会うことなどない人。 だから誰だかなんて知らなくて良い。 でも何かがとても自分にも近い人。 それも知らなくて良い。 そんな誰かの柔らかい声。 終わりじゃないよ。 はじまるんだよ。 とても柔らかく穏やかなのに切願が窺える表情。 望んだのは 君の幸せ。 世界の幸福。 修復はその為の手段に過ぎない。 綺麗な笑顔。 でもわかる。憂いを含んでいると。 人造人間の破壊は修復へのただ一つの手段。 君は開いてくれたけれど、まだこれから。 どうか、この望を… 視線を足元に落としながら「叶えて欲しい」と呟いたのが最後。 音が、リアリティが消えた。 誰かのその先に男の人が立っている。 何時から居たのだろう。 その男性と目が合った。 トランクスさん!? 現在の姿をしたトランクスさんが誰かの後ろに立ち尽くしてこちらを見ていた。 これは誰の夢? ここは夢と夢の狭間。 |