雲をひとつ残すよ



願わくは
出来る事なら
一緒に居たいのだと思っていた
でも、違う。
自分が持っているのはそんな可愛い願望ではない。
彼にも同じく想われたい
彼の事が好きだった。
それだけで充分だったのに
欲が膨らんでゆくと人はどうなってしまうのだろう



「只今、戻りました」
ブルマは息子の声に応えずただ一点を見詰めている。
その視線に戸惑い、悟飯は握っていたトランクスの服から手を放すと頭をぺこりと下げた。
「はじめまして」
彼女は孫悟飯を知っている。
悟飯もブルマを知っている。
しかし目の前のブルマと悟飯は初めて逢う。
戸惑い勝ちな悟飯の声はその為。
「母さん」
「人見知りする子なの?」
やっとトランクスの方に目を遣った彼女の視線は、明らかに口に出した質問とは別の疑問を投げかけ、説明を求めていた。


「で、連れて来ちゃったの?」
「…はい」
何とも云えない表情の母親への返事は他になかった。
好きだから一緒に居たい。
簡素な自分の説明はもっと何か云い足したほうが良いようにも思えたが、人に語るには実際それ以上は何もないような気がした。
「今後どうするの?」
「えっ!?チャージ出来たら一度帰ります」
質問の意味を解していないままの返答。
「違うわよ、その後」
もちろんブルマは納得しない。
「過去にもう一度行った、その後」
しまったと思った。
あと一手早く母の言葉の意味に気が付けば良かった。
その話は出来れば悟飯の前ではしたくない。
今はまだ。

「その後、あんたはどうすんの?戻ってくんの?」
会話にこそ入ってはこないが、自分を見詰める悟飯の心情を察してテーブルの下で小さな手をそっと握った。
「帰ってきますよ」
きっとそう答える。
薄々は気が付いていた。
いや、本当は確りとわかっていた。
ただ気が付きたくなかったから、無意識に気が付いていないと自分を騙していただけ。
いつかは離れる。
「いつかは離れるけれど、一緒に居られる今が大切だと思ったから、二人で帰ってきました」
ブルマから目線は外さなかったが、ブルマにではなく悟飯に云ったのかも知れない。
「二人でそう決めたの?」
ブルマがそう問ったのは息子ではなくトランクスから視線を外した悟飯にだった。

「いいえ」
急に振られて戸惑う悟飯と母に割って入いる。
ブルマの視線が自分に移るとトランクスは続けた。
「いいえ。悟飯さんとは、まだ」
まだその事に触れたくなかった。
「それで良いの?」
またもブルマが訊くのは悟飯だった。
何故だろう。
トランクスにはブルマの意図がわからなかったが、悟飯が答えられない事くらいは想像が付いた。
口を挿もうとしたトランクスをブルマが制す。
「二人の事なのに、あんたが一人で決めるの?」
御尤も。
そんなつもりではなかったがそうなる。
そうしてしまっていた。
悟飯の意思を蔑ろにするつもりなど露程もないのに。
「話し合えない程幼いなら対象にするべきじゃないわ」
口を開こうとするトランクスを制して続けた。
「ゆっくりで良いから二人で決めなさいよ」
ねぇ、と母親の顔で彼女は子供達二人の顔を覗き込んで微笑む。
見透かされている。
しかもどちらかと云えば認められている。
母には敵わないと感じた。
頷ずいたトランクスを追って悟飯も頷いた。
ブルマの遣り方を悟飯はどう解しただろう。
「それよりこの子」
ブルマは云い掛けた言葉を「いや、いい」と云い足して飲み込んだ。



いつかは離れ々々になる。
それよりもその事をトランクスの口から聞いてしまった事。
胸の中でぐるぐるまわってマーブルみたいに広がってゆく。
そして全身を侵食してゆく。

「平気ですか?」
悟飯を気に掛けていたトランクスが声を掛けた。
その声に応えて顔を上げた悟飯の視界にそれは映った。
きっと束の間、呪縛が解ける。
かわりに大きくなった心臓の鼓動が早まってゆく。

トラクスさんの…

彼が生活していた空間。
彼を映してのみ存在しえる感覚を伴った世界。
トランクスの為に用意され、仮の住まいとなったカプセルコーポのゲストルームとは明らかに違う。
ソファーもカーテンも全て、彼にその存在を許された物だけがそこにはあり、この部屋を仕上がったかたちに維持している。
今、初めて見た場所なのに容易に彼が生活する姿が想像できる。
只々それだけの偉大な事に高揚しているのは恋心故であることを幼い悟飯は理解していない。
けれど自然と溢れた笑顔でへへへと声に出して笑った。
何だかわからないと云った様子のトランクスにぎゅっと抱きついて、その胸に顔を埋めた。
そして顔を上げるとまたえへへと笑う。
その幸福につられてトランクスも笑った。

「可愛い」
「?」
「悟飯さん、可愛い」
思ったままに口にしていた。
耳まで桃色に染めて目線を逸らす悟飯を受けてトランクスも頬を赤らめる。
「…荷物解きましょうか?それとも明日にしますか?」
自分で云ったものの気恥ずかしくなってしまい話題を逸らすトランクスの提案に、やはり照れているのであろう悟飯は簡単に乗ってきた。
「今片付けてしまいます」
彼の暮らす部屋に自分の荷物を仕舞ってゆく行為に、幸福なドキドキはもっと高まるとも知らず安易に答えていた。



「あの子は?」
キッチンで遭遇したトランクスにブルマが訊ねた。
「眠ってますよ」
云いながら珈琲の入ったマグカップを軽く掲げて見せた。
「貰うわ」
ブルマがカップを受け取ると、トランクスはもう一つ新たにマグカップを出す。
「ごめんね」
「構いませんよ、インスタントだし」
言葉通りすぐにもう一杯の珈琲が出来上がった。
「そうじゃなくて」
ブルマは真剣な眼差しで息子を見据えた。
それを受けてトランクスは母の次の言葉を待った。
「…あの子は悟飯くんの替わり?」
その言葉は心の隅の仕舞い込んで隠した、痛く重い小さな穴に入ってきた。
痛みの感覚はある。
けれど自信があるから胸を張って堂々と答えられる。
「いいえ」
小さく、しかし確りと首を横に振った。
「絶対に?間違いない?」
同じくらいの確かさで確認される。
「ええ。解っている自信があったから、こうしたんです」
「…そう、ごめんなさいね」
そう云ったブルマにトランクスは微笑んで見せた。
ブルマは悟飯を連れて来た事を拒絶していない。
先程もそうだった。
自分ではなく悟飯に問うていたのも。
彼女が気に掛けているのは連れてきた事ではない。
その中身。
自分達がどうして、そうしているのか。
その善し悪しを見定めようとしている。
過ちでない感情とその結果であれば、時間の定めを蔑ろにする事を彼女は否んではない。

「今、幾つ?」
「えっ?」
急に変わった話題にトランクスの思考は着いていけなかった。
「あんたの歳」
視線をそのままにブルマはカップに口を付ける。
「十九です」
「もう直ぐ二十歳?」
「はい」
何故急に年齢を訊くのだろう。
しかし明らかに成長した息子の歳が気になるのも当然だと思えた。
そう云えば、向こうで過ごした詳しい年月をまだ話していなかった事に気付く。
「大人になっちゃったのね、早いなぁ…」
何処かで聞いたばかりの話。
「いやね、それが嫌な訳じゃないのよ」
珈琲に視線を落とし続けた。
「寧ろ嬉しいんだから」
愛されている。
口には出さず、ほろ苦さを期待してカップに口付ける。
珈琲はインスタント独特の厚みのない味がした。


It leave one cloud
April-3-2004
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