理を犯して見る夢には、終わりが在る事を知っている。 けれど、今を見据える事が出来るのなら、間近に迫る夏も、日増しに鮮やかになる陽射しも味方だ。 膨れた大きなボストンバッグ。 その横で開いたトランクの上には沢山の袋やポーチが詰まれていた。 どうして女の人は荷物をこんなに細かく分けてから鞄に詰めるのだろう。 細かく荷物を分けた張本人は表情を曇らせている。 「悟飯ちゃんが嬉々と云うから、危険な所とは思わなかっただよ」 その声は誰かを責めるものではなかった。 「ごめんなさい」 消え入りそうな声でやっとそれだけを口に出した悟飯の両肩にチチは手を添える。 「なして、危ねぇ場所に行きてぇ?悟飯ちゃんも戦いてぇのけ?」 その言葉に悟飯より先にトランクスが反応した。 しかしチチがそれを制する。 チチは悟飯に視線を戻してもう一度訊いた。 「悟飯ちゃんは?戦いてぇのけ?」 悟飯はゆっくりと首を振る。 その答えに偽りはない。 肩にかけた手に力を入れて、確りと悟飯の目を見据えるチチは、けれど表情は先程までとは比べられない程柔らかい。 「なして、未来へ行きてぇ?」 二人を見ていたトランクスもそれを聞きたかった。 悟飯の態度から察っせるが、悟飯の言葉で聞いてみたかった。 何故、行きたいのか。 しかし悟飯はチチの問いにも、トランクスの期待にも応えられずに目線を下げてしまう。 答える気はあるらしく、時々チチに視線をあわせ話し出そうとはしていた。 その度に動きを見せる睫に憂いが浮かぶ。 悟飯の言葉で聞いてみたい。 しかし、今はまだ無理なのだろう。 トランクスが一杯一杯の悟飯に助け船を出そうとした時、チチが悟飯に耳打ちした。 きょとんと母親を見上げる悟飯に、チチは「いってらっしゃい」と少し寂しげに微笑んだ。 そして、改めてトランクスに視線を移す。 「宜しく頼みます」 それを受けてトランクスは強く頷いた。 「悟飯さんを危険な目にあわせたりしませんから」 ちらりと悟飯を見てから、もう一度チチに視線を戻す。 「責任持ちますから」 それは彼女以上に自分自身に云ったのかも知れない。 「頼みます」 間髪も容れず微笑む彼女の迷いは何で消えたのだろう。 戦わない事? それだけだとは思えなかった。 「悟飯ちゃん、荷物造っちまおう」 頷いた悟飯は幼子の様に母にくっついた。 「俺、タイムマシン準備しますから」 特に準備などなかったが席を外した方が良いと感じトランクスは玄関を出た。 「お母さん」 「ん?」 「本当に行っても良いの?」 何かが引っ掛かっていた。 「行きたいんじゃねぇのけ?」 そんな風に訊かれては返事はYesしか見付からない。 悟飯には戸惑いがちに頷く事しか出来なかった。 「今度はどれくらい大きくなって戻ってくっかなぁ」 悟飯の服を畳みながら云うチチは決して悲観的ではない。 「二ヶ月前の服が小せぇんだもんな。おっ父と不思議な部屋に一年近く居たんだろ」 声は出さずに頷いた。 「これも着れなくなって戻って来るかも知れねぇな」 チチは鞄に詰める服の入った袋を掲げて見せた。 「楽しみだよ、悟飯ちゃんが成長してゆくのは。本当はそれを傍で見て居たいけれど」 神妙な顔をした悟飯の髪をくしゃくしゃ撫でた。 「まだまだ小せぇと思ってたのに、いつの間にかもうそんな子供じゃなくなっちまったんだな」 「ごめんなさい」 何と言ったら良いのかわからなかった。 ただ、これが精一杯、正直な気持ちの一言。 「謝るような事でねぇ」 けれど、悟飯は晴れた表情を見せようとはしなかった。 無理を通して行く訳ではないのに。 「…行かない」 「ん?」 「やっぱり、行かれません」 その詰まった声にチチも困惑してしまう。 「あららら…どした?悟飯ちゃん?」 チチは悟飯の頬を掌で包んだ。 包みたいのは頬だけではなく悟飯の全てだと云うかの様に優しく。 「お母さん独りになっちゃう」 やはり悟飯が気にかけていたのはチチの事。 「一晩だけだべ」 チチに取っては一晩だけ。 それは悟飯にもわかっている。 でも、そう云う事ではない。 「でも…」 「ん?」 「お母さん寂しい?」 「ああ、違ぇよ。悟飯」 やっとわかった。 悟飯が気にしていたのがそれならばわかる。 寂しいと感じさせる事に引っ掛かっているのなら、1日でも永遠でも関係ない。 「おめぇが留守するのが寂しいんじゃねぇよ」 顔に掛かる髪を耳の後にかけてやる。 「行って来い」 悟飯にも笑って欲しくて、目一杯の笑顔で言った。 「…わかん…ない…」 正直に母に伝えてみた。 留守にするのが寂しいのでなければ、何が寂しいのだろう。 母は寂しくないとは云わなかったのだから。 「笑ってけれ」 少し乱暴に手の甲でチチが我が子の頬を撫でる。 「悟飯ちゃんがこんなに早く大人になっていくのが、少し寂しかっただけだよ。でも、それ以上に悟飯ちゃんが成長してゆくのは嬉しい事だべ」 きょとんと自分を見つめている悟飯に、言葉でどれだけ伝わっているかはチチにはわからない。 だから、只管、微笑んで見せる。 「母親だもん。今はトランクスさんと行って、戻って来い」 もう何がなんだか理解出来ないと云った様子の悟飯に結論だけを突きつけた。 「悟飯ちゃんが決めた人だべ?もっと大きくなったら本当に送り出してやるから。なっ」 チチは休めていた手を荷作りに戻した。 「今はわからなくても良えだよ」 もう一度だけ手を止めて悟飯の髪を撫でた。 「どうしました?」 チチと荷造りをしていたはずの悟飯が一人家から出てきたので声を掛けた。 「わかりませんでした」 突然縋るように抱きついて来た悟飯を訳もわからずに受け止めた。 何が? 「どうしたんですか?」 落ち着かせようと背中を撫でる。 「だって…」 だって??? 「だって、お母さん、あの時、寂しそうに見えたから」 「あの時って?」 「行って良いって、行ってらっしゃいって」 そう云われればそうだったかも知れない。 「でも、行くのは寂しくないって、大人になるのが寂しいって、でもでも、それも嬉しいって」 トランクスにはチチの云っている事はわかるような気もする。 しかしすっかり困惑してしまっている悟飯になんと説明したら良いのだろう。 きっとシュガーコートなんて役に立たない。 「どうしたら良いですか?大人になっちゃダメ?」 そう云う事ではきっとない。 「お母さんの本心がわからない。ボク、行って良いの?」 また睫を伏せてしまう。 「たぶん全部本心ですよ」 トランクスは悟飯の目を覗き込んでゆっくりと言聞かせた。 そして視線を上げた悟飯に問う。 「悟飯さんはどうしたいですか?」 行かれないと思った。 未来に行くのは母を置いて行く事だと感じてしまったから。 たった一日だとしても。 母とトランクスとを比べたのではない。 置いて行かれる辛さは充分知っているから。 それは出来ないと思った。 なのに母は自分が留守にしても寂しくはないと云う。 自分が大人になるのが寂しいと、けれど嬉しいと云う。 今は行って戻って来いと。 それが全て本心なのだとしたら…? 何故、母は、自分の意思をリスペクトしたのだろう。 今までそんな事はあまりなかったのに。 「…行きたい。それから、戻って来たいです」 云い終わるか否かトランクスは悟飯を抱き締めた。 目を閉じて頬で腕で全身で悟飯の体温を堪能する。 「なら、そうしましょう」 ゆっくりと腕を解いた。 なんだろう? 悟飯が残りたいと云えば無論、賛成するつもりで居た。 悟飯の意思を尊重したかった。 この子が待って居てくれるのならば自分は必ずここに戻って来る。 来れる自信がある。 なのに、なんだろう。 悟飯が行きたいと答えた時の感情は。 本当は何が何でも、攫ってでも連れて行きたかったのかも知れない。 もう、既に手放せないのかも知れない。 そんな不安を隠したまま微笑むトランクスの瞳を悟飯が覗き込んだ。 「ごめんなさい。いっぱい、我侭、言って…」 桜色の頬を桃色に変え、それだけを云うと視線を横に逸らしてしまう。 「悟飯さん?」 漠然と問うと、視線をトランクスに戻してはにかみながら微笑った。 「ありがとうございます」 面食らってしまう。 この子は何を知っているのだろう。 何処まで気が付いているのだろう。 余裕のある振りなんて見透かされているのかも知れない。 「ボク、もっと確りしますから」 なんなのだろう。 急にそれは。 自分の思考を読まれたような錯覚すらしてしまう。 「悟飯さんは充分、確りしていますよ」 悟飯はぷるぷると首を横に振った。 「お母さんが、お父さんと結婚しようって決めたのは今のボク位の歳だったって。さっきお母さんが云ってました」 「え?」 何故、チチと悟飯はそんな会話になったのだろう。 鼓動が早くなってゆく。 「それって、子供の時のお母さん程、ボクは確りしていないってことですよね」 「さっきっていつですか?」 タイミングによっては凄い意味を持ち合わす事になる。 「さっき」 「?」 「トランクスさんも一緒だった時です」 「俺も一緒だった時?」 悟飯は頷いた。 「悟飯さんに耳打ちなさった時…ですか?」 もう一度頷いた。 「…」 チチは気付いている。 しかしチチが気が付いている事に悟飯は気が付いていない。 チチの云う、悟飯が大人になってゆくのが寂しいと云うことを、今、本当の意味で解ってしまった。 チチの迷いが何で消えたのかも恐らくは。 トランクスはきょとんとしている悟飯の肩を掴んだ。 「あの、俺、絶対責任持ちますから」 何の事だかわからない様子で首を傾げる悟飯をぎゅっと抱き締めた。 「俺は悟飯さんのことを好きだって事です」 抱いていた腕を緩めて悟飯の顔を覗き込む。 「そして、チチさんは多分、それを許してくれる」 それは云い過ぎかとも思ったが浮かれて云い切ってしまう。 「わかりますか?」 紅色に染まった頬で悟飯は頷いた。 「…あの」 「はい?」 「………」 今度は悟飯がトランクスに抱きつく。 「好きです」 消え入りそうな小さな声。 けれど確かに悟飯は言った。 それはいつかは悟飯の口から聞きたいと思っていた言葉。 「…光栄です」 先程、涙を零した悟飯の気持ちまでも解ってしまった気がする。 流石に泣いたりはしないけれど。 「荷物運ぶの手伝ってけれ」 扉の開いたままの玄関からチチの呼ぶ声がする。 「はいっ」 陽射しが色を変え始めたばかりの空の下、ニ人の声が同時に響いた。 |