あの頃、本当に、俺は見た事もない“平和”を望んでいたのだろうか? 悟飯さんの願いを叶えたかっただけなのかもしれない。 悟飯さんが願う未来なら素晴らしい事しかないように思えた。 「おはようございます」 トランクスは玄関のノッカーを鳴らした。 「おはよう。トランクスさん」 いつも訊ねて行くと、扉を開けてくれるのは大抵悟飯だったが、今朝はチチが出迎えてくれた。 「ごめんなさい。悟飯、さっき起きただよ」 彼女はトランクスに座るよう促すと、バスルームに向かって行った。 「悟飯ちゃん、トランクスさんもういらしてるだぞ」 扉ひとつ向こうのチチの声は聞こえるが、ふたつ向こうの悟飯の声は聞こえなかった。 戻ってくると「ごめんなさい」ともう一度、トランクスに言ってキッチンに入って行った。 「明日、悟飯預かって貰っても良えだか?」 お茶を勧めるチチに頼まれた。 「ええ、構いませんけど」 「病院に行こうと思って」 突然の言葉にトランクスはぎょっとした。 「どこかお身体の具合でも?」 チチは微笑んで首を振った。 「妊娠したかもしれねぇだ」 更に驚かされてしまった。 孫悟空はもう居ない。 けれど、こんなかたちで、亡くなった後も存在を強くアピールしている。 その神秘的で、なのに極自然な事が物凄い事のよう感じられて呆然としてしまった。 「でも、悟飯にはまだ黙っていて貰いてえだよ」 「?」 「間違いだったら、あの子、気を落とすかも知れねぇ…」 弟か妹が生まれるとしたら確かにこれが最後のチャンスだ。 それはチチにとっても。 その時、扉が開いて、まだ髪が濡れたままの悟飯が顔を出した。 「お待たせしました」 そのあどけない姿に、保護欲を掻き立てられる。 髪を拭いてやろうかと思ったがチチの前なので思い止まった。 「今日はここまでにしましょうか」 心ここにあらず。 あまり勉強も手につかない様子の悟飯にトランクスが言った。 「…え?」 「今日はもうお終いにしましょう」 トランクスは優しく先程と同じ事を言う。 「?」 それでも状況が飲み込めないらしい悟飯の右手から、やんわりと鉛筆を取り上げた。 悟飯を椅子から抱き上げて自分の膝の上に座らせると、目線を外さないように尋ねる。 「どうしたんですか?」 「…ごめんなさい」 けれど、悟飯は伏し目がちに、目線を逸らしてしまう。 「何かありましたか?」 何かあったのなら話して貰いたいのだが、こちらを向いても貰えない。 トランクスは思い出したように、ポケットからCommon Sunflowerと書かれた小さな袋を取り出した。 「悟飯さん」 左手で悟飯の手を取り、その袋を小さなてのひらに乗せた。 「…こ…もん…?さんふらわー?」 「ひまわりの種ですよ、蒔いてみませんか?」 笑顔で頷く悟飯にはっとさせられた。 そして気が付いた。 今日悟飯の笑顔を見るのは今のがはじめてだ。 何かがあったのは確実。 それも昨日から今日のおそらく眠っていたであろう間に。 母親の妊娠の事だろうか。 何となくは気が付いているのかも知れない。 嫌なのではなく不安なのかもしれない。 もしくは父親の事だろうか。 何にしてもぼんやりしているようでいて、その実センシティブなこの子の助けになりたいと思った。 やり方はわからないけれど。 チチの提案で観察しやすいよう家の近くに蒔くことにした向日葵の種は、昼食中に水に浸けておいた。 水を張って種を浸けた器を慎重に運ぶ悟飯に歩く速度をあわせる。 水の量を減らすか、器から出して種と水を別々に持ってくれば楽だろうと思ったが、水を溢さないように懸命なその姿が可愛らしかったので言わないでおいた。 「この辺りにしましょうか?」 「はい」 トランクスがスコップで土を掘り返して柔らかくしていると、悟飯は隣にぺたんと座り込んだ。 白い服で。 「あ…」 けれど、既に座ってしまっているので何も言わず、悟飯の前の土も手早く耕してやった。 「悟飯さん、指で…こう」 言いながら柔らかくなった土に小さな穴を空けた。 その穴に種を落として土を少しかぶせる。 それを真似て悟飯も一粒ずつ丁寧に種を埋めてゆく。 そして器に入っていた水で土を湿らせた。 午前中のことなど忘れてしまったかのように、屈託のない笑顔を見せる悟飯が可愛くて仕方がない。 一度認めてしまったらもうどうにもならなかった。 恋をしている。 子供なんだけどな…。 引っ掛かっていることはあるけれど。 そんなことを考えていたのに、次に悟飯の口から出た言葉は意外なものだった。 「このままじゃ、トランクスさん優しいから、ずっと居て下さいますね」 「悟飯さん!?」 しまった!! 世界が一転した。 魔法が解けるみたいに。 途端に気付いてしまった。 この子を口実にしていた事を。 「ごめんなさい…もう、本当はとっくに、帰れたのに…なの…に…」 「違います、悟飯さん」 悟飯を掻き抱いた。 何かが怖くて。 こんなに強く抱しめたことは今までになかった。 衝動はあったけれど。 壊れてしまいそうで慈しむようにしか触れてこなかった。 けれど今は感情に負けてしまっている。 こんなかたちでわかってしまったから。 知りたかったことを。 悟飯が何を思い悩んでいたのかを。 まさか自分の所為だったなんて考えてもいなかった。 「ごめんなさい、違うんです。あなたの所為にして、ごめんなさい。本当は俺…」 気付いてしまった。 人造人間を壊す事を迷っていた自分に。 「違うんです。あなたの所為じゃない」 トランクスはゆっくりと悟飯を抱いていた腕を緩めた。 愚かな自分を打ち明ける覚悟を決めて。 「人造人間を壊す事で、目的があるんだって、やるべき事があるんだって、希望があるんだって思うようにして、自分を誤魔化してきた事があるんです」 悟飯も必死だった。 泣かないように。そう決めていたから。 そして予想外のトランクスの対応を理解したくて、一言も聞き逃したくなくて。 「人造人間を倒しても悟飯さんは戻らない」 それを思い知りたくなかった。 だから帰りそびれてしまった。 もちろん。それだけが全ての理由ではないけれど。 同じ。 悟飯を好きなのだと認めてしまったら思い知る事がある。 ずっと一緒には居られない。 逃げていた。 気が付かないように。 引っ掛かっていた本当の理由は、きっと子供だからではない。この事だ。 これじゃあ駄目だ。 「俺はあなたが思うほど強い人間じゃないし、優しくもない。ずるくて、臆病で、今もただ逃げているだけです」 ぷるぷると悟飯は首を振った。 そんな悟飯に少し微笑んで見せた。 「帰ります。でも知っていて下さい。あなたの所為で帰らなかったんじゃない」 「…」 また、言葉にならない。 こんな時、何も話せなくなってしまう。 気持ちは沢山あるのに、沢山あることに負けて言葉にならない。 それが解ってかトランクスは出来るだけゆっくりと砕いて話した。 「そうなら、あなたが眠っている間に、人造人間を壊しに行って、目覚めるまでに戻ってくる事もできたんです」 どうして?…優しくしてくれるの? 「あなたに笑っていて欲しかった。泣いても良いから、辛い事を辛いままにさせたくなかった。その為になら何でもしたかったのに、俺の所為で辛い思いさせて…」 ボクは悟飯さんじゃないのに。 「自分の事も出来てないのに、駄目ですね、俺。悟飯さんのこと、人造人間のこと、きちんとかたをつけてからあなたに向き合えば良かった」 「何で?…何で…きる…ん…ですか?」 やっと声がでた。 けれど、涙と一緒に。 「…?」 「…トランクスさんは逃げてもない…し、臆病でもありません」 頬にこぼれた涙を拭ってやろうと手を伸ばしかけたが悟飯は俯いてしまった。 「だって…だって…わかってて、でも帰え…ちゃんとやらな…ちゃ駄目って、帰…えるんでしょう…全然…逃げてないじゃないですか…」 言いたいであろう事はわかる。 必死に意思を伝えようと話してくれる、悟飯が愛おしくて抱き寄せた。 濡れた頬をくっつけて、いつものように柔らかく。 「…も…迷ってな…い…」 「俺ですか?もう迷ってない」 悟飯の顔を覗き込んで、しっかりと目線をあわせた。 「あなたに伝えたい事があるから」 「…?」 悟飯にはトランクスの言っていることがよくわからなかった。 「人造人間を壊したら、戻ってきますよ」 いつまでも一緒には居られない。 けれど、伝えたい気持ちがあるから。 !? 拍子抜けしてしまった。 もう二度と会えなくなるかと思い込んでいた。 急に散々落ち込んで泣いた自分が恥ずかしくなってしまって顔を背けた。 でも、戻ってきてくれるんだ 悟飯はトランクスの胸に凭れ目を閉じる。 「しばらくお別れですね」 見蕩れてしまった。 昨日と同じ。 この子は時々こんなしっとりと満ち足りた表情をする。 だから掻き立てられる。 実際には触れないけれどその唇に。 そんな気持ちを振り払うように悟飯の頬を突いた。 「明日の朝までには戻りますよ。明日、悟飯さんをお預かりする約束をチチさんにしてますから」 「トランクスさんには明日じゃありません」 むっと膨れた悟飯が可愛らしくて、トランクスは思わず笑ってしまった。 けれど本人は怒っているようなので「そうですね」と頭を撫でた。 膨れているのは子供扱いしている所為だと思って。 |